11月3日、午後9時を少し過ぎた頃。9回2アウト、11-2の大差。日本一が確実なようで、最後の最後までどこか心配が拭えないのが、我らがベイスターズ。投手は森原、そして対するホークスの最後の打者は、この日2ランホームランを放ったホークスの柳田であった。森原の4球目を空振り三振した瞬間は、映像で振り返ればこそ、一瞬のうちにスタジアムが歓喜の渦に包まれたことはわかる。しかしながら、ウィング席のてっぺんからは、永遠にも感じられる一瞬の沈黙があったように感じた。それとともに、じわりじわりと押し寄せる「日本シリーズ制覇」の感触。いつまでも、いつまでもスタジアムに残っていられるような感覚。外野席から投げ込まれる、溢れんばかりの紙テープ。正直、「優勝慣れをしていない」ので、優勝したらどうすればいいのか、ファンも(そして選手も?)わかっていない様な気がするのである。
そして、凡そ10年強、ベイスターズを応援してきて、時には周囲に鬱陶しいばかりのベイスターズ愛を語っていたことは知り合いにも強く印象づいていたようで、InstagramやLINEなど、各種SNSが過去1番のレベルで鳴ったような気がしている。「本当に横浜優勝しそうやんけ」、「(優勝したら予約すると宣言していた声優の写真集を)もう予約してもよさそう」、「報われてるのを見られてよかった」等等、嬉しいチャットをたくさんいただいた。
そんな横浜が優勝するまで、ポストシーズンの1ヶ月の私の軌跡を、遅ればせながらもなんとなく日記にできたらと思い、筆を取ることとした。
10/12(土)川上牧丘林道
のっけからベイスターズ関係ないんですけどもね。この日は結構無理しました。
高校時代から仲良くしている、鉄道模型とMT車の大好きな後輩たちと、今度はダートコースへと行くことにした。関東から手軽に行ける立地にありながら、その岩の大きさは本格的。山梨県山梨市と長野県川上村の境界の大弛峠を越えるのが、この川上牧丘林道である。日本の車道最高地点でもあり、その筋では有名だといえよう。
さて、日本の車道最高地点ということもあり、この林道は冬季閉鎖がきわめて長い。例年、11月中旬から閉鎖され、オープンは翌年の6月頭ごろになる。この11月中旬というのも、気象条件に依存するため年によって異なったりする1ので、正確なところは分からない。かねてからこの林道に行こうという話をしていたのだがなかなか予定が合わず、気がつけば10月に。しかしながら閉鎖のタイムリミットも迫る。ということで、「昼過ぎまでならば予定が合う」この日に、片道で林道を制覇し、信濃川上駅現地で解散することと相成ったのである。

今年の10月はかなり暑く—それは翌日の西宮で強く感じることとなるのだが—、であるにもかかわらず、関東でいうならば12月初旬のような肌寒さを頂上では感じた。そして、いわゆる強い山道で、オーナーが相当攻めた走りをした山梨県側を遥かに越えた、岩がゴロゴロしていたダートコースの長野県側は強く印象に残っている。頂上から運転した後輩が、苦笑と爆笑を織り交ぜながら激しく揺れる車をうまく制御しつつ下っていったのであった。もちろんジムニーというのはある意味「そのための車」なので本領を発揮したといったところであるが、非常にエキサイティングな半日の旅行であった。筆者はダートコースの後半を担当したのだが、山を下るにつれ岩の粒径は小さくなってきて、ジムニー特有の安定性と低めに寄せたギアも相まって、それなりに安定した運転ができた。エンジンブレーキがよく効くから、2と3を行き来すればいいんですよね。
その後、信濃川上からは小海線、そして小淵沢からはあずさ号にて横浜に帰還。息つく暇もなく、金管5重奏の練習へと向かったのであった。11月2日の本番に向けた。
10/13(日) 甲子園球場
往復の交通の話はこっちに。
9月頭。CSの圏内と圏外を行ったり来たりしていたベイスターズであったが、その時のやんわりした希望的な順位予想は讀賣-広島-横浜であった。しかしながら、7年前の体験、奇跡的な日本シリーズ進出の思い出がよぎった筆者は、「甲子園だったら遠征したいなぁ」とも思っていた。その後の広島の大失速は言うに及ばず、結果的に最終順位は讀賣-阪神-横浜に。そう決まった瞬間、あらゆる予定を退けてー正確にはそうなることを望んで予定を入れないでおいたーこの日に遠征をすると決意したのだった。友人の尽力もありなんとかチケットを手にすることができた我々一行は、現地にて合流したのであった。ここの同行者には、前日川上牧丘林道を一緒に上がった後輩もいた。つまり、だいたい20時間ぐらいぶりに会ったのである。それも地元でない場所で。
西大路でレンタカーをゲットした我々一行は、まず宇治を目指した。

義井沙里の実家であるところの許波多神社にお参りし勝利を祈願、宇治の市街地で抹茶をいただくなどしていたら意外に時間が経ってしまったので、宇治西インターチェンジから西宮まで一路高速道路をかっ飛ばし、昼頃には阪神国道駅の近くに駐車。甲子園球場までは電車で向かった。
「加古川の人帰られへん」とはよく言ったものではあるが、実際、阪神甲子園球場への来場者のほとんどは大阪側からの来場者で、逆側の今津から乗った電車はそれほど混んでいなかった。なぜか室内灯は消えていたが。
一方で甲子園駅を降りたら、それはもう人だらけ。駅前の地下のスーパーに行ったらそれはもうカオス極まりなく、9割の人が阪神ファンであった。さすが本拠地。レジ列は少なめに見積もっても、レジが10レーンあるのにもかかわらずそれぞれに10メートルぐらいは並んでいた。なんとか飲み物やお菓子を手配し球場にたどり着き、試合を観戦したのだった。
この日、試合前の練習にてジャクソン投手がコントロールを誤り、スタンドにボールを投げ入れてしまう珍事が発生。あろうことか、我々一行の座席にボールが飛んできたのだった。高城ブルペン捕手の「いいよ、あげるよ笑」という肉声も含め、とても貴重な体験であった。驚きすぎて写真を撮るという発想にならなかったことを少し悔いている。

3塁アルプス席ということもあり周囲は阪神ファンだらけの中、試合は2回の連打にはじまり、伏兵・フォードのホームランなどもあり終わってみれば10対3の大差にて快勝。敵地での2連勝を経て、決戦の敵陣・東京ドームへと乗り込むこととなった。奇しくも7年前の2試合目と同じような、大量得点の試合であった。
試合後には、周囲の阪神ファンからの「おう絶対讀賣倒しいや!それが俺らの願いや!」という熱いエールをいただき球場を後にした。
そして、同行者おすすめのお好み焼き店で、大変美味でありながらも阪神ファンだらけで少しばかし肩身の狭い思いをしながら夕食をいただいたのち、高速道路にて長い旅路を一路東へと帰っていった。
10/14(月)
レンタカー返した後、体力の限界を迎えて寝ていた。さらに翌日は体調がヤバかったので在宅勤務とした。
10/16(水)
この日は定時より少しだけ早上がりして東京ドームに急行した。相手先発は戸郷。それだけで、今後を不安視するには十分だった。でも、ベイスターズはやってくれた。
「このへんで佐野に1発でねーかなーw」と、同行者と笑っていたら、出た。マジかよ。

結果的にはその1点に、さらに1点を加えた完封勝利。敵地・東京ドームにて文句ない勝利を見ることができたーと、今から振り返れば確かにそうなのだが、実際のところいつ失点するか怖くて、気が気ではなかった。大量得点打ち合いの日の方が、胃には悪影響がないのだが。そんなCSの白星発進だけで我々は舞い上がっていて、そして勢い余って新横浜まで新幹線で帰ってしまった。でも新横浜は意外と飯屋がなくてちょっと苦労した。
10/17(木)
この日の相手先発は菅野。それだけで、今後を不安視するには十分だった。でも、ベイスターズはやってくれた。さっきもこの言い回し見たって?そりゃ同じ気持ちですからね。2日とも。2024年の対讀賣を考えたときに、菅野と戸郷を攻略できるかがカードの成否を分けると言っても過言ではない、というか、どちらも球界を代表する様な投手であって、その投手相手に連勝することは正直難しいと思っていた。だから前日も「まぁでも明日菅野だしなぁ」とか、当日も「今日菅野だしなぁ」とか言いながらドームへ向かった。この日は都内出張であったので前日よりも早くドームに行くことができた。道中では連結を開始したばかりの中央線(讀賣色の方)のグリーン車に乗車することも叶い、2日連続の敵地へと乗り込んだのであった。この日のヒーローはなんと言ってもオースティン。やはり好投手であるので連打は難しく、ぼんやりと「1発出ねえかなぁ」とか思ってたら出てくれました。
ここにきて、敵地2連勝。7年ぶりの日本シリーズが具体的に見えてきたのは、思えば、この日からだったように思う。この日も舞い上がっていたのでグリーン車で横浜に帰りました。

10/18~20
この3日間はKアリーナ横浜にいたので、ある意味では横浜で、ある意味では横浜ではないような状態であった。私のもう一つの(何個あんねん)好きコンテンツであるところの「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 7th Live」および、その前夜祭たる、Arena Bar 7の「Previous Night」に参加していたのである。
Previous Nightではプロ野球速報を片手に飲酒しながら爆音虹ヶ咲でぶち上がっていた。とはいえこの2コンテンツ、どうやらファン層がわずかに重なっているらしく、隣のオタクが勝利の瞬間をDAZNか何かで見ていたのだ。思わず声をかけてしまい、肩を組みながら一緒に勝った時のアレ2を歌ったのである。爆音だから誰も気にしない、と思う。
かくして3連勝を飾ったDeNAベイスターズだったが、その後の土日に足踏みをしたのはご存知の通り。
一方Kアリーナでは、通ったこともない高校の校歌を2万人のドス声で斉唱するなど、大変に盛り上がっていた。ある意味甲子園じゃん、と思った。ほかにも、コロナ禍時代であり私がまだこのコンテンツに出会う前のアニメ1期・2期に紐づいた楽曲、すなわち、私にとっての「未回収の虹ヶ咲」を回収することもできた、とても楽しい良いライブだった。また、赤嶺天、すなわち「楽器演奏を軸としたスクールアイドル」という、ずっと楽器をやっている筆者は謎のシンパシーを感じるキャラクターに対し、ちゃんと三線の奏者を出演させることや、クレーンを使ってみたりして、そしてクレーン上で大暴れする村上奈津実など、新規性と進歩性にあふれた虹ヶ咲らしいライブコンテンツであったと思う。
Day2は連番者とともにArena Bar7へと上がり、これまた打ち上げとして騒ぎ倒したのだが、なぜかベイスターズのユニフォームでバーにいたオタクがいた。まあファン層被ってるとはいえ、それはどうなの…?と思わない面もなかったが、私もハイテンションだったので「明日勝つっすよ!絶対勝つっすよ!!!」とグータッチしてすれ違ったのであった。
“最高のもっと先へ”、という歌詞がある。6th Liveと紐づいたアルバムの表題曲の、”Fly with You”である。7th Liveでもアンコールで披露されたが、今振り返れば、この秋はまさに”最高のもっと先”を、2つの方向で体験できた。
鳴り物入りのNew Yoker (A・ケイ的な意味で)
研ぎ澄まされたDeNA
あとカシオペアと西武甲種と半ライズ撮った。
10/21(月)
7年ぶりの、日本シリーズ。横浜に帰る。それも、強大なる敵・讀賣を打破して。
それだけで、感無量であった。

ライブの興奮冷めやらぬ月曜日、なぜか土日のうちに後がなくなっていたベイスターズ。
チケットが取れた時は「まさか6戦目まではいかないでしょう」と思っていたのだが、あれよあれよと言う間に6戦目の実施が決定。仕事をそこそこに、喉が崩壊した状態のまま、またも東京ドームへ向かったのであった。
この日の先発は、初日と同じケイと戸郷。先制される苦しい展開に、重なるエラー。同行者からは到着前に「エラー見てらんない」とのLINEが来るなどしていた。そしてこの第6戦、引き分けであれば下位チームであるベイスターズの敗退が決まってしまう。途中同点になんとか引き戻すも、迫り来るタイムリミットにただただ焦り、不安になるばかりであった。そんな中、中継ぎ投入されたのは菅野。万事休すかと思いつつも、心のどこかでは「中継ぎ慣れしていないのだから、ワンチャンスあるのではないか」と信じていた。そしてそのチャンスは現実のものとなった。牧選手のタイムリー、と語られがちだが、その裏には森選手のゴロ間の気を吐く走塁があったことを忘れてはならない。というか、あの走塁があったからこそ、決勝点が入ったのである。決勝点の瞬間は、すでにライブで喉がなかったのにもかかわらず、叫んだ。どこから声が出ていたのかわからないが、とにかく叫んだ。動画を撮っていたスマートフォンが吹っ飛び、その様子もばっちりと録画されていた。
インターネットの有名なコピペの一節に「勝てる・・・勝てるんだ!」というものがある。この日はまさにその気持ちであった。
優勝、表彰式の余韻もそこそこに、なぜかきていた阪神ファンの関西の知らんおばちゃんと談笑しながら気づけば11時。遅すぎて東京始発になった東海道線の、これまた調子に乗ってグリーン車で横浜へと帰り、西口の磯丸で2時ぐらいまで飲んでいた。磯丸の中で流れていた日テレがCSの結果を一向に流さないので、「さすが大本営だなw」と、これまた隣の卓にいた知り合いではないベイスターズファンと談笑していたのであった。翌日は在宅の研修だったので、なんとか気合いで頑張った。
10/26, 27
この土日、ハマスタでの日本シリーズでありながら先約の用事を入れてしまっていたのである。とはいえ、滅多に集合できないメンバーの飲み会であり、そちらもまた貴重な機会であり十分楽しむことができた。そして私がベイスターズファンでいることも知られていたので、「ここいていいの?w」などと言われる様であった(もちろん、ジョークまじりで)。
日曜は翌週に本番が迫った金管5重奏の練習。これもリスケするわけにはいかず。
この土日、気づけば2連敗してしまったベイスターズ。圧倒的な貯金差をはじめとした前評判も相まって、もはやここまでか、と思っていた節はあった。それとともに、私は本番後になんとかハシゴしていく算段で確保した第6戦のチケットの行方を心配していた。
10/29~31
会社にも、今年からファンを始めたというベイスターズファンがいる。であればやることは一つ。パブリック・ビューイングに行く。
と言いたいところだが第3戦の日はあいにくの雨。ということで適当にスポーツバーにログインしたのである。先制したものの即座に追いつかれ、息詰まる展開が続く中、桑原選手のホームランでなんとか勝ち越して、しばらく経った後。画面越しでは、東投手が何かを訴えている。怪我明けということもありアクシデントを心配したのだが、結局審判と何かを話し、こちらは何もわからぬままに試合が再開。それがいわゆる指笛騒動だったのは、後になって分かったことである。
適当に入ったスポーツバーは、それこそみんなベイスターズファンだったので、歓声あり(凡退とかの)愚痴ありと、様々な感情が入り混じるなか、一体感のある盛り上がりを得られた。
第4戦・5戦はパブリックビューイング。第4戦は中継ぎ投手を打ち込むことができ勝利。この時点で第6戦の実施が確定し、ひとまず手元のチケットが紙くずにならないことがわかり胸を撫で下ろした。いっとき遠方に住んでいた中学の同級生が偶然来ており、少し話すことができた(が、私は最初通りかかった時に気づかなかった。ごめんなさい)。第5戦では「攻めまくれ」原曲を歌っていることで有名な角田信朗さんをゲストに呼ぶなど、かなりの大盤振る舞いイベントであった。攻めまくれの公式見解が聴けるのも、ある意味では貴重な体験であった。このころから、小久保監督がピッチャーを変えたタイミングで打ち込むようなシチュエーションが増えてきていて、さながら2015年のプレミア12を思い出すような流れもしかしたら、もしかしてだけど、これはあるぞ、という気持ちになってきた。

もっとも、第5戦の時点ではいわゆる「外弁慶シリーズ」として語られることが多かったといえる。そして地味に、ホークスサイドから見た場合の「日本シリーズ連続無得点」記録が更新されかかった状況にもあった。
こうも毎日毎日夜で歩くと、年齢もあり多少は疲れてくるのだが、そんなこと言ってられないのが日本シリーズである。
11/2ー雨天中止
この日は金管5重奏の本番。都内での本番が終わり次第横浜スタジアムに急行する予定を立てていたのだが。折しも朝から雨は止むことがなく、13時頃に雨天順延が発表に。通常のシーズンとは異なり日付ではなく第◯戦が有効であるので、手元のチケット自体が無効になると言うわけではないのだが、予定調整を余儀なくされた。
結局、本番を終えた後は、二階俊博のサイン入り書留郵便、つまり国内旅行業務取扱管理者の合格証を引き取った後帰宅し、改めて第6戦の同行者とともに決起飲み会をしたのであった。
11/3 ➖Final Battle
この日は千葉県内某所にて吹奏楽オフ会。もともと11/2に日本一が決まってくれるとだいぶ助かったのだが雨になってしまったものはしょうがない。なんとか無理やり予定を調整し、オフ会終了後横浜へと急行。首都高速湾岸線を一路西へと法律の範囲内で疾走し突っ走れどこまでも勝利を呼ぶ男、となった。試合開始には間に合わなかったので、カーラジオを1242kHzにセットし状況を逐一チェック。ちょうど有明出口を過ぎ、特徴的な外観の国際展示場駅の横に差し掛かった頃、ラジオから流れてきたのはホームランの絶叫。そう、あの筒香のホームランである。つまり私は現地では見ていないということになるのだが。
新山下の出口を抜け、なんとか見繕っていた駐車場に車を止め大急ぎでスタジアム、ウィング席の最上段には着いた時には3回が終わりかけであった。その後、4回には柳田選手のホームランで2点差に迫られ、息詰まる展開が続くこととなった。
続く5回。小久保監督の投手交代があったタイミングで、筒香選手のあわやホームランのツーベースなどで一挙7点を追加し、試合の大勢は決したように見えた——相手がソフトバンクでなくて、これがレギュラーシーズンであるならば。

やはりソフトバンクというのは、7年前の記憶がどこかには残っていて、難敵であるという印象は拭えず、そしてベイスターズもこのポストシーズンで随所に失策があったことから、結局のところ最後までドキドキしていたことには変わらなかった。
それでも、以後はお互い0点に抑え、8回表の若鷹軍団がどことなく「最終戦」であることを強調させながらも、最終的には11-2で勝利。ここに、ベイスターズの日本一が決したのだった。正直なところ後半の記憶があまりないのだが、それは観客の我々でさえも極度に緊張していたからかもしれない。

投げ込まれる紙テープ、ペナントを持ちゆっくりと回る選手。MVPは誰か、受賞は誰かとワクワクする空気。さらには、5回あたりからだっただろうか、試合が進むにつれ増え続ける、スタジアムの外周でさえも埋め尽くさんばかりの、数多の観衆。

あまりにも人が多過ぎて機動隊が出動する始末であったようだ。日付が変わる頃に、人気の引いたスタジアムから撤収する機動隊のごっつい車を見たのだ。
とにかくにも、異様とも言える—いや、日本一がかかっているのだから逆に当然であろうが—初めて体験する空気と高揚感。夢のようで、でも夢じゃない。どこかふわふわした感覚でいられた、そんな時間であった。

数々の賞状が送られ、我々一般のサラリーマンからしたら「そんなにもらえるんだwwww」といった桁数の賞金が次々と送られ、興奮冷めやらぬ中表彰式が進行していった。そして、表彰式が終わっても、帰ろうとしない多数の観客。それに球団が業を煮やしたかはわからないが、当日なのにもかかわらず記念タオルの発売を開始。しかも、ブルペンを解放しそこで発売、待機列はグラウンドに形成するという大盤振る舞いっぷり。相変わらず商魂逞しいなこの球団。それでもって、やっとスタンドから人がはけ始めたのだ。

日本一のテンションなので、これを買って帰ろうと思ったのだが、待機列はあまりにも長く、商品にありつけたときにはすでに日付が変わってしまっていた。
それでも、スタジアムの正面3にはまだぽつぽつと人がいた。そこで早くも掲示された「横浜日本一」のポスターを背景に記念撮影をするなどした。
本当ならお酒を飲みに行きたかったのだが、日付が変わってしまうと、お酒が抜けた後に車を回収する、という戦略がアルコール分解時間の関係上難しくなってしまう。そんなこともあり、一旦車に向かい、遅くまでやっている家系ラーメン屋に行って締めることとしたのだ。道中、中区役所にカラーコーンを投げ入れる酔っぱらいだとか、深夜に鳴り物をかき鳴らし警察官に注意されているファンだとか、優勝おめでとう!と声をかけてきたと思ったら実はホークスファンだったおじさんとか、なかなかファンキーな光景を目にしながらも車を回収した。ラーメン屋も結局混んでいたので、食事を終えたのは午前1時半ぐらい。そこから帰宅し、ここに1ヶ月にもわたったポストシーズンの旅は幕を閉じたのだった。
半分ジョークで「横浜が日本一になったら山下公園から海に飛び込んでもいい」とか筆者は言ってたのだが、色々な人から「飛び込むなよ?w」と言われたりして面白かった。
エピローグ
翌日は、修了から2年経ち、大学に対するトラウマも多少解消されてきたこともあり、名前の変わってしまった我が母校の学祭に少し顔を出した。最近はNFCタグと連動した学祭専用アプリを出すなど、かなりハイテクになっているなと感じた。
そして相も変わらず商魂逞しいのはこの球団。このあと1ヶ月ほど、毎週末になれば日本一記念グッズが発売され、そのたびにショップがカオスになる日々が続くのであった。受注生産品もいくつか購入し、1月から遅いものでは3月ぐらいに届くような状況となっている。またファンフェスティバルも観覧した。この頃になるとすっかり冷え込むようになり、早くも—いや、今年はシーズンが長かっただけだ—冬の訪れを感じざるを得なかった。そしてまたユニフォームリニューアルするかよ、と思った。
このブログを書き上げているのは12月25日の深夜。なんだかんだで執筆をサボっていた毎週グッズが出たり出かけたり、次の資格勉強をしたり、ようやく訪れたオフシーズンで模型いじりに入ったりといろいろやることがあったので記事完成が遅くなってしまった。
来年は沖縄キャンプの観覧も予定しているし、そのために(もちろんそれだけではないが)望遠レンズも買った。NPBの規約改定もあり写真をアップロードすることは叶わないが、来年も充実した野球観戦ライフを送っていきたい。そして今年の大きな忘れ物、「リーグ優勝」を見せてほしいと願う。
ところで今年のブログの積み残しには「Y500系ベイスターズトレインの製作」「小型船舶操縦士免許を取った話」「国内旅行業務取扱管理者資格を取った話」があって…いくつかは来年になりそう。
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